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zoom RSS 小説「坂の上の雲」から教えてくれるものその六

<<   作成日時 : 2006/09/16 15:09   >>

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司馬遼太郎ははじめ子規に興をそそられ、子規の異色の親友に真之が居て、その兄が好古だったと言う処から取材を始めたのだろう。
子規は我が松山が産んだ現代俳句の礎を若干三十五歳でこの世を去るまでに完成させた天才である。あの病魔との戦いが子規の精神をあそこまで高めたとも言える。
子規自身、小説の中で「世間には古来、大望をいだいたまま死んだ者は多いが、あしほどの大望を抱いて地下に逝く物はあるまい」と虚子にこぼしている。
更に、子規に自身の俳句運動の優位性を「つまりは、運用じゃ。英国の軍艦を買い、ドイツの大砲を買おうとも、その運用が日本人の手でおこなわれ、その運用によって勝てば、その勝利はぜんぶ日本人のものじゃ。ちかごろそのようにおもっている。固陋はいけんぞな」と言わしめている。
司馬遼太郎は小説の中で『「兆民は平凡浅薄じゃな」世評では、兆民は死の宣告をうけてもなお筆をとったというのは筆をとる者の天職をつくしたものだ、という。子規は、「たいそうなことをいうものではない。病中筆をとるのはうさ晴らしにすぎぬ」と、そのおなじ死病のなかにいる者としての正直なところを言う。兆民は、喉頭がんである。「兆民居士はのどに一つ穴があいている。自分は一つどころか腹にも背にもしりにも、蜂の巣のように穴があいている。一年有半という期限も似たりよったりであろう。しかしながら居士(兆民)はまだ美ということがわからない」子規は、自分には美がある、という。じっさい彼は病床六尺にありながら、美の行者でありつづけることでは、どういう健康人もおよばなかったであろう。』と、
又、『「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」という名歌をひく。上三句はすらりとして難がないが、下2句はリクツである、と子規は言う。「歌は感情を述べるものである。リクツをのべるものではない。・・・・・もしわが身ひとつの秋と思うと詠むならそれは感情としてすじがとおっている、が、秋ではないか、と言いだしたところが、リクツである。俗人はいうにおよばないが、いまのいわゆる歌よみどもは多くリクツをならべて楽しんでいる。厳格にいえばこれらは歌でもなく、歌よみでもない」思いきったことを言っている。古歌をこきおろすだけでなく、古歌をありがたがってそれを手本に歌をつくっているいまの歌人は歌人ではない、その作品も歌ではない、という。』と子規を評している。
子規は役割を果して死んだ。松山には、昔からある子規庵と子規記念博物館とがある。俳句という地味な存在で行政から死んで九十年経って、遇されているのが何よりの証左である。
真之についても、触れねばならないだろう。
筆者の見解では、好古や子規と同レベルの事を海軍という畑で行ったに過ぎない。唯、この時代の群像の中ではこの三人が突出していたのであろう。「運用」という作業が上手な男が二人戦争に関ったから、物量で勝るロシアに際どくも判定勝したとも言える。
この三人が舞台から下りて、日本は目に見えて下り坂に入ったと言えよう。
大局的に見れば、長い下り坂の一時の煌きだったかも知れない。
次回は、長かったこの小説「坂の上の雲」が教えてくれるものの結論に入ろう。

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内 容 ニックネーム/日時
私は、国語教師だったし、短歌も詠んでいるので、子規がやった仕事の偉大さは分かります。5年ほど前、高松市立紫雲中学の同級会を松山市でやりました。同級生の島田君が松山で大きな文房具店をやっている関係でした。その時、子規庵と俳句博物館、愚陀楽庵、山頭火の一草庵、石手寺などを訪ねました。懐かしい思い出です。
首藤
2006/09/16 19:49

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