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zoom RSS 日本人の気質を求めるその三(カルチャー:皇室の始まり)

<<   作成日時 : 2006/11/09 14:40   >>

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倭族が弥生人というのは解って頂けたと思う。
周王朝が成立する以前に淮国・奄国を初とする数多くの倭族の遺跡が発見されている。
北中国の最初の覇者である周王朝に討たれ、斉に攻められ、最後は呉によって滅ぼされた。この滅ぼされた倭族が四散して倭族文化圏を作ったのだ。この時代の日本において弥生人が入ってきたと思われる。日本における弥生時代の始まりが前10世紀という事実と符合する。
弥生人達は、自分達の祖先を神として祭り、100〜200人位の集団で水田を耕作し、米を主食とした生活様式であったようだ。全ての集落で日本神話の原型が語り伝えられたんでしょう。それ等の集落が集まって、国が出来たようだ。そこでは、先祖神を祭る首長によって統治され、従属した人々はその似通った文化に従っていったのだろう。
記紀を見ても、その内容の多くは倭族が散らばった地域に残された伝承と似通っていると最近の研究は物語っている。例えば、天孫降臨とか、やまたのおろち伝説等はその最たるものだ。
一方、多くの倭の国々は同族である呉の領民となったが、その呉も春秋時代末南の越によって滅ぼされて、当然南に逃れる事は出来ず、北も宿敵北魏であったから行けなかった。辛うじて朝鮮半島の中南部に逃れ得たのが前五世紀だから、皇室や物部氏の祖先もそれ以降余り遠くない時期に渡来したものと想像できる。
紀元頃には、日本には小国が百程あったようだ。大陸に目を移すと紀元を前後して、前二千五百年位から都城を築き発展していた長江文明は秦・漢王朝によって撲滅している。その時代に四散した有力な部族が天皇家や物部家の祖先であったと思われる。彼らは、逃げ延びて来たものの、鉄器を操り稲作をしていたので、当時定住していた縄文人の支配勢力を東に追いやって弥生文化を築いたと思われる。
只、天皇家が出来た当時に初の八代は作文したものに違いない。
一体、天皇家の始まりはどういうものだったんだろうか。
今の天皇家は帝王学を身に付け、「〜様」と国民から呼ばれ敬愛を受けている。しかし、作られた八代を除くと、親族同士の血で血を洗う権力闘争があったようである。現在の親が子を殺し、子が親を殺すと言う風潮は経済力がついた結果なのかも知れない。そういう血みどろの政権運営の中、物部・蘇我氏の相次ぐ台頭による存続の危機も、聖徳太子や天智天皇によって両氏を退け、天武天皇によって現在の皇室の基礎が築かれた。
次回は、元々中国から来た日本人のルーツが追い出した文化の吸収を語りたい。

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