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zoom RSS 虐めにどう対処するか

<<   作成日時 : 2006/11/18 10:51   >>

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一、虐め
1、欲望こそ心の基本
我々の心は、大脳を動かす働きです。その働きの内で最大のものは欲望と言っても過言ではありません。今日のマネー第一主義がまさに欲望に命じられるままの我々をほんろうしています。今回の報道で鬼母事件に見られる行動を支えている欲望と言う怪物にがくぜんとする他ありません。
では、欲望と言うものの正体を鬼母の採った行動から解析しましょう。彼女の行為は単に卵子が持つ遺伝子を残す為に為されたと推測されます。詰り、男をどんどん入替えるのも、その気を引く為に我子を殺してしまうのも、自身の卵子が持つ遺伝子にとって有利なように行動したと言えます。
我々が最も欲望を感じるのは、快楽を伴っています。この快楽こそが免疫力を強めて自身の遺伝子を元気にさせるように人間は造られています。遺伝子は、種族保存の必要性から欲望の源 (現在をより有利にするように心に対して働くもの)だけが残ったと考えるのが一番整合性がありそうです。人類が八百万年前に誕生してから、文明は最初の稲作文化から数えても一万年弱です。現在の人間は種族保存に成功した結果として、欲望最優先になったと言えましょう。遺伝子にとって現在はこの文明的生活は始まったばかりですので、長かった太古に経験した種族保存や身の危険を避ける心の働きの結果として欲望が一番力を持っています。
2、虐めとは
虐めも然りです。自身を優位にし、他を排斥する行為がされる側から見れば虐めに他なりません。本能の赴くが侭に行動しているのですから、これを無くすには本能を上回る徹底した教育に頼る他ありません。人類は数千年の文明の後、政権を運営する哲学である帝王学を教育手法として手に入れています。それが仏教であり儒教です。これ等は宗教でなく哲学と見なしましょう。
帝王学に拠らない政権運営(北朝鮮に良い見本があります)は、鬼母のようなもので直に崩壊の憂き目を数限りなく経験した後に、儒仏が生まれたのです。その二つの思想体系は、夫々生き残るべくお互いの優れた部分を吸収して発展したものが現在残っている姿と言えましょう。
仏教は、元々釈迦が「拘るな」と言った事から始まっています。全ての苦しみは、拘りから生まれている。だから、拘りさえ無くせば苦しみは無くなるという宗教ではなく養生法から始まっています。それを、弟子が自身を絶対化する為に宗教としてしまい今日に至っています。一方、儒教は理想の国家を夢見て、成立しています。ですから考え方であっても、宗教ではありません。これも仏教と同じく、後世の人々が権威にする為に宗教化した訳です。そして、宗教化したからこそ国家を超え、時代を超えて、他に負けない理論作りができています。二つとも、最終的には理想の人作りが最終結論になっています。それを信教の自由と言う戯言だけで、使わないのは宝の持ち腐れと言わねばなりません。これを使わずして何によって教育できましょうか。
3、心の本体は楽しみに有り
その儒仏の発展により、五百年余り前に王陽明は「心の本体は楽しみに有り」と言っています。こういう考えを持てば、虐めは無くなると考えます。虐めるという行為は、快楽ではあっても心の楽しみではないからです。ここの所を教育によって、本能の上に教育し直してこそ虐めは無くなると考えます。現在行っている優しさ・平和・愛を中心とした教育では改善しません。
これこそが緊要であって、愛国心云々というのは不要の議論であります。何を為すより早くこれが実現するように政策責任者は教員の再教育から始まる教育改革こそ急ぐべきと考える次第です。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
虐めは、欲望から来るものでしょうか。虐めても、自分の得にはなりません。欲望ではなくて、自分のストレスの発散ではないかと思います。自分のむしゃくしゃする気持ちを、他人を虐めることによって発散しようとするものではないでしょうか。今のように、勝ち組、負け組をはっきりさせる格差社会のあり方を変え、社会的ストレスを緩和することが当面、緊急の課題だと思うのですが。
首藤
URL
2006/11/19 16:36
虐めの原因は、言葉ひとつで結論できないと思います。Hbarさんが言うように心の楽しみを教育現場に反映させることも大切ですし、首藤さんがおっしゃるように格差社会のあり方を変えて社会的ストレスを緩和させることも大切です。
でも一番大切なのは、子供に一番近い家族、特に両親が子供にどれだけの気持ちをかけれるかというところではないでしょうか。
生まれた時から自分の子供の行動特徴は、よく知っているはずです。
虐め側であれば、子供の時から乱暴な面が現れていたでしょうし、虐められる側であれば学校へ行き始めてから何かコンプレックスを抱えたような言動が見られるはずです。
うちの子供に限ってはというフレーズは昔からよく聞かれましたが、加害者の両親の弁解でした。
今は、虐められる側の両親が使っているように思います。
常に子供との会話を正さず、虐められてないか?虐めてないか?を察知する義務は両親にあるのではないでしょうか?
チャーリー
2006/11/27 15:57
大脳で考える事と遺伝子の望むことは全く次元が異なります。水と油ですから、同列の議論をしてもかみ合いません。虐めの難しい所はそういう事なのです。
Hbar
2006/11/30 21:45

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