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<<   作成日時 : 2007/01/24 20:04   >>

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私にとっての人生
2006/9/6〜2007/1/23
Hbar 2006/9/6
結論までは書きません。
六十を前にして、私は人生設計を誤っていると自身を悔悟しております。
しかし、百歳迄生きるかもしれない訳ですから、後四十年以上今までの生き方を是とはできません。
こうやって、ブログに書込んでいるのも、今迄に得たものからこれから自身にとって箴言となるものを、自身に言い聞かせる為でもあります。
こうやって、人生の先輩である首藤さんや「六十路独り言」さん及び「NETの野草」さんから色々教わり、同い年の「おじさんの夢と希望」さんと共に悩み、「飯大蔵の言いたい事」さん「蒲公英」さんそして若い「なら思うに」さん「のりふみ」さんの人生観から色々刺激を受けれるんじゃないかとワクワクしています。

Hbar 9/9
軽く選んだと言われますが、「人生、人格、研究」は決して軽いテーマではありません。でも選んでくださいと言った以上、応じなければ「ババ」がすたります。一冊読みかけの本がありましたので、それを終えてからにしたもので遅くなりました。先ずは「人生」について書いてみました。「人生。それは繪のようなもの」ですが、多くの人にも読んでいただきたいと思い、ブログ「六十路独り言」の方に載せました。ご面倒ですが、そちらをご覧いただければと思います。

Hbar 9/9
先の書込みは、おババさんが「研究」に書込んだものを管理特権で人生に移しました。ご了解下さい。
リンクで飛ぶとおババさんの人生についてのブログに到着します。さすが、耳順から十年近く経っているだけあって中々若い者では到達でき難いことを仰っておられます。
学ぶべき事は学びましょう。

Hbar 9/13
おババさんは人生を絵のようなものだと仰いました。
絵画を描くには、必ず通らねばならない「デッサン」という代物がどういう技法を使おうとも通過点があります。
明治以来続いてきた「文部省」によって築かれた教育システムでは、デッサンを教えずに技法のみを百点満点の計測法で教えてきたんだと考えています。
好き勝手にグジャグジャな書き方をしていると思われる抽象絵画などでこそデッサン力が問われます。あのピカソが二十歳前後に描いた絵等、写実そのものです。あのデッサン力にして評価されるものが描けたと思えます。
「何を教えるか」の主題もここにあります。

Hbar 9/16
私は子供の頃、近所の人からおだてられ親からは叱られてばかり居ました。随分性格がまがったのかなあとも思うのは、虐められっ子を振返って思う事です。
自身を乗り越える為に、随分勉強もしました。ニヒリズムに被れて、大学を中途退学もしてしまいました。今の、登校拒否が大学になってきたんですね。随分発達障害かな。自身の中を嵐が吹き荒れてたんですね。
又、それを克服する為にも学びました。主に、仏教による自身の肯定というものに惹かれ、仏教書を手当たり次第に読んだものです。当時は、字面だけ解ったつもりでした。
吹き荒れる自身ですが、私の場合は内へ内へと向かったのです。これの説明である唯識と出会ったのは五十を過ぎてからでした。漢訳の本文と読下し文しか頂かなかったのですが、身に染込んだものです。
救いであったのは、二十五歳を過ぎてからの思索が真の自身を肯定する事を心棒にした事でした。もし、否定していたら何処向いていったか解りません。これが運命というものでした。
これが、生計を狂わしたという内容です。歩いたものでないと分りません。でも、自身の経験から真の自身を肯定する事は何より大切だと言う事です。決して、自身を甘やかす事はありませんから。

Hbar 9/21
私は理屈が先に立っていけません。
理屈では、感謝というものが大切というのは分るんですが、理屈ばってしまい、損をしてしまいます。
人間孤独だからこそ、伝わるのは感謝なんでしょうね。
愛するというのもありますが、愛憎というように憎さと裏腹なんですね。それと愛するというのはその対象を特定してしまいますので不具合が出てきます。
謝、謝。

八王寺だより 9/22
「進路選択の悩み」は、皆さんが経験したことだから、いろいろご意見がいただけるかと思って書きましたが、あまりうまく行きませんでしたね。あれを書いていて、私自身は一つの発見をしました。昭和20年代は、社会への貢献、社会定期意義のある生き方というのを、青少年は考えていた。それが、昭和30年後半あたりから、自分のために生きる、自分の利益を考えるのが当たり前という社会風潮になってきたように思いました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を、みんなが笑いながら受け入れるようになってしまいました。そして「金儲けって悪いことですか」とテレビで公言する時代になってしまいました。昭和20年代までは、こういう発言を公然とは出来ないようなモラルが社会にありました。

八王寺だより 9/22
訂正です。「社会定期意義」は「社会的意義」の間違いです。皆さんが発言しやすい、肩の凝らない話を、どなたか書いてください。私はどうも、堅苦しくて申し訳ありません。

Hbar 9/22
首籐さんの仰るとおり、書込みをする事で何かが閃くのが人間です。人間は、自分を通してしか物事を認識できないからです。
書込む事は、意識して尚且つ自身の肉体を使うという自身にとっては一番強烈なご縁を持つという事になります。そのご縁が自身に働きかけ、思っても見なかった結果を産みます。
それと、人の意見もきく事もできます。そして、それに対して書く事も、その学びがより深くなります。
私もブログを書いて、新しい自分が出てくるのに吃驚しています。

Hbar 9/23
私は、極最近まで歩んできた道は後悔せず、今を精一杯生きる事を信条としていました。
しかし、六十前にして言い訳する訳にはいかない年老いた母親に対し、自分でもこれで良いのかという自問自答をする今日この頃です。
人生に五計ありと言われます。
一日、一日の勘定は赤字であっても一年中の総勘定では余りあるという計を立てるのが人生大家であると読んだ事があります。それには、生計・身計・家計・老計・死計と分けて考えるのが良いようです。
生計というのは、生きる謀です。大切なのは本姓に従って生きる事のようです。本姓とは、又訳の分らぬ事をとお思いでしょうが、自ずから然らしむるように生きる事に他ならないでしょう。旬を大切にするのもその内でしょう。身近にあるものを拒否せず取り入れる心掛けが大切なんでしょう。
身計というのは、いかに自己を処するかという事です。この為にこそ教育の必要性を感じます。近頃の様々な事件の悉くは、自分の処し方に詰まった人達が多いのに気付きます。事の為のみならず己の為に教育を論じていきましょう。
家計とは、自分の家庭を如何に維持していくかという事です。要するに、自身の事を含めて家庭、ひいては一族の行く末の謀です。詰りは、自身の子供や孫の人格形成と言う事になります。その最大の計は敬われる存在となる事のようです。背中でちゃんと育つと言う事です。
老計とは、それまで生計・身計・家計と頑張って出来上がった人生の佳境を味わう為の謀です。今まで、苦労した事の総決算といえるでしょう。かといって、特別な事をするわけではありません。仕草は、若者と同じなのですが全てが老熟し、自身の限界を知り、無茶はせず、角々しさはとれ、全てに滑らかさの見える生活と言えます。それを考えることを老計と言います。
死計とは、生死を超越した死に方、生き方を計る事です。老計を立派に生活をして、入るのが死計です。ここでの計は、所謂生とか死というものを超越した死に方であり、生き方を計ります。
私も、もう一度生計から、すっきりとした計画を練り直し、残りの四十数年頑張りたく思います。
ここまで、考えることの出来るのが日本人(中国から受け継いだのではあるが)にとっての教育問題は、軽軽しく「愛国心」「美しい国」と言ったのではお里が知れます。
祖先への尊崇を持って、このサークルの議論を活発にしましょう。

八王寺だより 9/24
「五計」というのは、仏教用語ですか。生計、家計というのは、辞書に出ていますが、Hbarさんの使っている意味と全然違います。知らない人と話し合いをする場合は、辞書に出ている普通の言葉を使わないと、分かり合えません。Hbarさんの用語は特殊なものが多くて、何を言いたいのか理解に苦しみます。今回のも、五計の説明があるだけで、何を問題提起したのか、我々は何について書けばいいのかが,私にはよく分かりませんでした。ふだんの話言葉で書いてもらえませんか。

Hbar 9/24
五計というのは、儒学で言われる言葉です。
明治人であれば、無論ある程度以上の教養人なんでしょうけど常識だったみたいです。
江戸時代の朱子学を基礎とした明治人であれば、人生を語るに五計抜きにはしなかったようで、基礎的教養だったようです。詰りは、我々のDNAを明らかにしてテーマ「人生」を語るのが本義と思いましたので、本当は一番に出す積りでした。しかし、難し過ぎると投稿がないと困ると思い、二十台の青年が分る話題から入ったのです。
現代では、人生を語る事自体難しい事なんですね。それも大学院生でさえも、投稿して来ないんです。ここの所が現行教育が日本人を歪めてしまった事実を象徴する事と言えます。
首藤さんやおババさんのご両親は、デカンショ世代です。これも、その親御さんの五計を常識とした引き続きだったのでしょう。
それで、首藤さんやおババさんが高校時代に将来を考える事が可能となっています。現在の高校生に「何になるん」と問い掛けますと、「未だ、決めてない」が決まり文句です。
DNAを提起した積りです。
日本人として、知るべきを自身の人生に当て嵌めて考えたく思います。定義として体系化されたものですので、皆様の人生を考え易くしてくれる事を願います。そして、多くの書込みを管理者として願っております。

Hbar 9/24
詰りは、DNAを継承しなかったのが明治の一番の罪です。
テクニックばかり強調する事と合せて、教育勅語を最優先したが為にこういう結果になってしまったと考えます。

六十路独り言 9/24
こんにちはーー
私も首藤さんのご意見には賛成です。
私のブログへの書き込みのお返しのコメントにも書きましたが、世の中にはいろいろな人がいます。
自分が知っていること。分かっていることは誰でも理解できると思うのは間違いです。
若い人の考えも引き出そうとすると、観念論ではなく、具体論
として、身の回りの出来事などを引き合いにして話を進めることが大切です。
それと、他人の話をすべて自分の思考過程に組み込まないで、受け取ることが大切でしょう。
DNAそれ自体は化学的な物質です。
身体の形質的な特徴、生理的傾向などの遺伝を司る働きをしますが、主義や考えを伝える働きはしません。
子供の考え方や行動が親に似ているとすれば、それは親と共に暮らしているうちに、行動を見たり、教えを聞いたりしているうちに、後天的に伝わったものです。
親の主義そのものが、もしもDNAによって遺伝するなら、恐ろしいことです。
DNA操作によって国民すべての思想統一までできることになります。
人間の成長を考えるときに、先天説と後天説という見方があります。
このこととDNAについて少しご検討いただければと思います。
失礼を顧みずーーー

Hbar 9/24
DNA論議で花が咲きそうですね。
おババさんに感謝。
僕は、折角のサークルなんだから理解できない事は「これは何だ?」と書き込みをして頂ければ良いのです。元々、歩いた道程は全く異なる者同士の集まりですから、分らない事は分らないと素直に書けば良いでしょう。又、理解足らずに変な書込みをした所で、遠慮なく持論を展開すれば良いだけの事です。お互い顔も知らない同士(首藤さんのみ写真を公開)なんですから、それも教育について議論をしようと集まったんですから無礼講でいきましょう。
DNAの話なんですが、日本以外(革命や侵略で支配民族自体が異なってしまう国々)と同様では寂しいじゃないですか。大和朝廷が発足して、奇跡的に同一民族であった国民なんですから。江戸時代までは、どうあれあああれDNAは引き続いたと思います。基本的には、人間は親から子へとリレーが原則でしす。日本の場合は、明治の廃仏毀釈と文部省の設置のみがDNAの連鎖をしていません。信長の叡山焼討でさえ、天台宗のDNAは連鎖しています。
首藤さんとおババさんは体制内で教員をなされたから喉に痞えるものがあろうかと存じます。しかし、おババさんももう直、矩を超えずです。色々とご意見を期待しております。
管理者としては、意見を言うよりは調整が使命だと認識しております。どんどんご意見が出て、集住が付かなくなった時に調整するのが役目と心得ております。意見は「何を教えるか」で十分でしょう。
皆様のコメント投稿をお待ち致します。
私で対処できなければ、十歳以上年上の方もおられます。私の手に負いかねれば、こっそりとお二人に智慧を借りに行きますので、どんどん議論を深めて頂く事を願います。

Hbar 10/1
DNA論議に花が咲く所か気質に変更してチョンでした。
辞書を引く方にとってはDNAは許せないんでしょうが、一般の方には気質のほうが分り難いんではないかと思います。これも教育の責任なんでしょうね。かたぎと読める人事態が多くはないように思います。きしつと読む人が多いんではないでしょうか。
国語教育をせずしてテクニックのみを教えているのが文部省の態度です。先生の殆どは公務員ですから上司の命令にしたがわざるを得ない状況がこういう事態を生んだと言えましょう。こういう事態に陥る事を推測して防いでこそ政治の役割を果たしたと言えるでしょう。

八王寺だより 10/1
気質を、かたぎと読むのと、きしつと読むのは、それほど重大な問題ではないと思います。教師は公務員ですが、「教育基本法」と「施行規則」に守られて、行政が教育内容に立ち入ることが禁止されているために、戦後からは、上司の命令にあまり縛られないで来ていました。Hbarさんは、官僚が悪いという思い込みがあるようですが、官僚は政府の命令で動いているので、政府や総理大臣の命令に背くことは出来ません。小泉さんは、国民の怒りを官僚に向けさせて、自分を正義に味方に見せかけましたが、誰かを悪人に仕立てて、自分を正義にするのは、独裁者の常套手段ですよ。

Hbar 10/2
学校の先生・県庁や市役所の職員・国家公務員何れを取ってみても、個人的に悪い人はあんまりお眼に掛りません。
唯、クロパトキンの如き保身傾向が強くなるのが曲者です。日本の場合、官僚組織が大きくなりすぎ、その割りに政治機構に変動が少なかった。小泉さんでやっとスタートがきれ、阿部内閣では補佐官が五人でき、少しずつ制度を整えつつあるように見受けられるようになりました。小泉さんの前は、遍く官僚の絵図のままというのが歴代内閣のありようだったと思います。
小泉さんになって、審議会の答申が立つようになった訳で、森さんまでは、答申よりも官僚の絵図が先行したように見えます。こういう構造で、一部の特権官僚の優遇と繋がったのでしょう。
阿部内閣には是非政治主導でやって欲しいものです。

NETの野草 10/3
首藤さん記載事項の1部を引用してお尋ねします。
<教師は公務員ですが、「教育基本法」と「施行規則」に守られて、行政が教育内容に立ち入ることが禁止されているために、戦後からは、上司の命令にあまり縛られないで来ていました。>
 私のBLOGでも書いておりますが、自然科学では真理は不変で問題は少ないですが、社会科学は、環境(最近では経済の世界的な拡大)によって原理(手法)が変わるものです。
 私は40年近くの会社生活で、この事を強く実感しております。環境に適応して自己変革出来なければ、個人も、会社も退去させられるのです。先生の世界が引用文の様なことで守られ、上司の意見にも縛られないとしたら、先生方は何を基準として自己研鑽を進めているのでしょうか。最近の青少年犯罪などでは、先生が不必要にまで謝る姿はよく見ますが、先生が親に対し、社会に対し注文を付ける様な場面が無いように思いますが。
近年1部の私立大学では少子化対策として、先生方に売れる商品(学生)を作れ、売れない商品を作っていたら会社(大学)が潰れる。と言って先生方に教育の仕方その他工夫させていると聞いております。公立の小中学校では、教育手法などで先生方の工夫が生かされ、良い手法は学校全体で活用出来る様な仕組みは出来ているのでしょうか。

Hbar 10/3
私の目から見れば、公立学校の先生は公務員です。
教師は、教育委員会に縛られ、縛られという言い方が悪けとしても、結構上司に気を使っているのが現状に見えます。特に、校長・教頭にそういう方が多いです。
個人的に付き合えば、高潮する人は自身の哲学を持つ人格者です。そして、教育委員会は指導要領があるからと逃げます。
こういう状態、上に縛られ、PTAに突き上げられ、先生も教育どころじゃなさそうというのが外からの目です。
尤も、首藤さんのように通常は同じ所に三十年もおられた硬骨漢は例外です。
民間会社でも、僕の知り合いのやり手は、転勤辞令がでても、転勤せず支店長で留まりつづけた。結果、高卒の彼は上場会社の平取です。
定年になっても、会社に必要な人は何とでも名目つけて会社やめさせませんからね。しばられるか、縛られないかは、結局はその人間次第という事でしょう。
結局、今の教員を造った教育学部が1番の悪者かもしれません。

八王寺だより 10/3
一般公務員と教員とで、研修の仕方が法律上も実態でも違っていました。一般公務員は決められた研修を受ける義務がありました。しかし教員の研修については、あくまでも「自主研修」で、自分が受けたい研修を自主的に選ぶようになっていました。したがって、私は、民間団体の会合や教育研究会に出席して研修をしていました。また、自分でも教育研究会を組織し、全国の教師と勉強会をしていました。教育は、あくまでも真理にもとづくもので、時の権力に屈したり、おもねったりしてはいけないというのが、第2次世界大戦の教訓でした。憲法、教育基本法もその精神で貫かれています。今の政府は、教育内容にも口を出し、政府に忠実な教育、学校にしようとして、憲法、教育基本法を改定し、教員の管理を強化しようとしています。教育は真理にもとづくものであり、時の権力に従属してはいけません。校長になりたがっている出世主義者は、上の言うことに忠実ですが、彼らも話し合ってみると、上からの官僚主義には困っています。

Hbar 10/3
結局は、自身を運用できるかどうかなんでしょう。主導さんは、ご自身をご自身で運用できる方だから良い訳です。当然、私も自分をどう運用するか意識を持つものの一人として申上げております。戦争体験というのは、不幸かもしれませんが己を知るという事においては重要に思えます。
何事も体験とその体験を租借できる知識が要るんでしょうね。若い先生方大変です。思わなくっても、考えなくっても良い事に振り回されている状態のように思えます。若い方々、如何ですか。益々考え込みますか。

NETの野草 10/3
最近の学級崩壊、少年非行の記事を見ると、親の責任、社会の責任が大きいと思いますが、先生の責任もあります。私は先生方が、それぞれの主義、信条を持って教育に望んで頂くことは必要なことと思います。しかし、今教育に求められていることは、先生の主義主張を教える事ではなく、事実を教え、その事実について、生徒に自分で考える習慣を付けさせる事ではないでしょうか。非行についても、同じです。悪いことをしたらどうなるか、生徒に考えさせているでしょうか。
 自分の頭でものを考えられない人は、社会に出ても役に立たず、本人に取っても不幸な船出となります。
今日の様に少年犯罪が多いのは、社会の変化に教育が着いて行ってないではないかと思います。どうしたら良い教育が出来るかは、社会全体で考えなければ成らない時期に有るのではないでしょうか。

八王寺だより 10/3
「私だから出来た、あの人だから出来た」と言うのではありません。私だけでなく、見識を持ち、生徒・父母のために頑張っている先生の方が多かったですよ。だからこそ、大部分の生徒たちが立派に育っているのです。今も現場の先生方は頑張っています。それを応援するのでなく、管理で縛ろうとする動きがだんだん強まっています。
 私が言っているのは、真理や学問の成果に基づいて教育をやるべきだと言っているので、特定の主義・主張を生徒に教えようと言っているのではありません。NETさんがおっしゃるとおり、事実を教え、その事実について生徒に考えさせる習慣をつけるために、授業やホームルームで指導をしてきました。悪いことをしたらどうなるか、もちろん教え考えさせています。だからこそ、ほとんどの生徒は問題を起こしません。しかし今の社会環境の中で、ごく一部の生徒が問題を起こしているのです。これは、本人、親、学校、教師にも責任がありますが、社会全体で考えていかなければ解決しない問題です。

飯大蔵の言いたい事 10/3
お邪魔します。
 全面的に八王子だよりさんを支持します。
多くの先生は子供のことを考え必死に頑張っています。少数のどうしようもない先生がいた事も事実だし、増加しつつある事も事実です。
 先生方をバッシングする一部の保護者、一部の校長、教育委員会、文部省、政府、マスコミとこれだけ揃えばおかしくならないほうが不思議です。しかし今でも頑張っている先生も多いことを忘れないでください。
 先生を支援するべき教育行政もなっていません。外国では学校に関わる事務処理は別の人がやっているし、労働環境としてみた学校の環境は劣悪だし、予算は増やさないし、これらは教育行政の責任ですがマスコミはヘタレで何も言わない。
 子供が荒れる現象はもう20年ぐらいの歴史があります。彼らの一部は既に親になっています。教師にも責任はあるでしょうが、親のしつけや、子供が見てしまう社会の実態なども大きな影響を及ぼしている事でしょう。
 教育の荒廃に対する政府の説明など嘘ばかりです。彼らは何をしたいかによって原因を作っているだけですよ。

Hbar 10/3
ご三方、夫々仰っている通だと思います。
私にも小学校の1、2年生・3、4粘性・中学三年生の担任教師には随分お世話になりましたし、未だに年賀状のやりとりもしています。子供にとって教師は神様でもあります。
しかし、先生が教えている以上、その先生の目で見、耳で聞き、肌で感じた事を基にしてしか伝えようのない事実があります。ですから、事実を教えるにしてもその先生が感じた事実を教えている事は否定できません。詰り、主観の入らない教育と言うのは有得ないという事実から目をそらすわけにはいきません。
「NETの野草」さんの仰る事は、観念上ではできますが、生身の人間に要求するのは酷というものです。
私も二十歳の時に考えた事・四十の時に考えた事・下剤と、主題は同じなのですが、全く異なる結論の多い事に吃驚します。今と言うご縁の導きでこのサークルを立上げ、こうやって皆様と議論しております。
そこの所を、深く議論しないと上滑りの理想主義になってしまいます。戦時でない現在、答えは歴史になるまで帰りません。「何を教えるか」を創り上げねばならないのです。私なりに新年はあります。しかし、折角のサークル、皆様の声も反映できたらと考えております。
今日、図書館で、リチャード・ブロディー箸「ミーム」という書籍が目に止りましたので、予定変更して借りてきました。おババさんのお陰かな。斜め読みして、感想をここに書きます。
大いにディスカッションしようではありませんか。

六十路独り言 10/3
いろいろなご意見を興味深く読ませていただきました。ただ話の筋がブレがちで、このままだと際限なく拡がってしまうのではないかと心配します。それと議論をするのはよいことですが、理屈、言葉の遊びにならないように注意することが大切でしょう。皆さんの主張に私の意見も加味して、まとめてみようと思います。 ずっと気になっているのですが、コメント欄の行変えが出来ないために、読みにくいし、主張の段落がハッキリしません。自分が書くときは、きちんと行変えの操作はしていますのに、何故でしょうか?前にも書きましたが、主催者に善処をお願いしたいと思います。そんなわけで、項目ごとにコメントを分けて書くことにします。
まず、教師の資質です。先生の中には、良い先生も悪い先生もいます。一頃、「でもしか先生」という言葉が流行りました。八王寺さんのように、教育者になることを目指して先生になったのではなく、先生になるしかないという状況で先生になった人です。こういう方々は、おおむねお金を得るための仕事として教職を選んだわけで、教育に対する理想や熱意に欠けるける人もいるようです。 教師になる資質として一番に必要な用件は「人間が好き」ということ、次いで、「他人の心を読むことが出来、他人の立場で考えることが出来る。他人の話を良く聞くことが出来る。何時までも好奇心、探求心を持ち続ける」などでしょう。そしてもっとも大切なのは「教育は単なる知識の伝達ではなくて、次代を担う人間を育てることだ」と分かっていることです。 これらの資質を持っているなら、その先生は、きっと、生徒にとっても親にとっても良い先生でしょうし、地域社会の中心にもなることが出来るはずです。 ただ残念なことに、採用試験に置いて、これらの要素が十分に考慮されているかどうかは疑問です。そしてもっとも大切なのは、
二番目は教師の立場、地位です。企業に置いては、その企業の経営方針に反対し。従うことが出来なければれば、不良社員として左遷されたり排除されるでしょう。 私立学校の教員の場合も同じです。建学の精神、理事長や校長の指導方針に従えないものは、自ら退職するか、首を言い渡されるでしょう。 では、公立校の教職員はどうでしょうか?彼らは公務員です。公務員とは、国民の税金を報酬としていただき、国の行政のために働く人間です。 従って、公立高校の教職員は国の教育行政に乗っ取って働かなくてはなりません。 しかし、ここに問題が一つあります。その教育行政が正しいかどうかと言うことです。私は思います。正しい教育行政とは、行われる教育が、自立心を持って行動出来る人間を育てること、次代を担う人間を育てることに役立つものであるかどうかだとーーそしてその判断のためにこそ教育内容、教育方針の絶えざる反省、見直しが必要になるのです。
最後は教育内容についてです。八王寺さんは「真理や学問の成果に基づいて教育する」とお書きになりました。賛成です。しかし、現代では真理も成果も掃いて捨てるほど多くあります。その中から何を選んで教えればよいのでしょうか?必要な真理や成果は、時代と共に変化します。この選択を一人一人の教師の判断に任せたらどうでしょうか?教師という名で一括りにされていても、それぞれ主義主張、歴史観、好みなどは違います。たとえば大学入試、高校入試などがなければ、人それぞれ学んだことが違っていても害はないかも知れません。しかし、現在の社会情勢では、てんでバラバラでは困ります。何を教えるかの大きな枠組みは絶対に必要です。それが、教育基本法であり、教科の指導要領であることは周知の通りですし、その教育基本法の根本は、子供一人一人の未来に役立つ教育ということでしょう。 子供たちの未来に役立つ教育とはどんな教育か?具体的には何を柱にしたらいいか?そろそろ実質的な意見を出す方向に進めた方が良いと思います。建前論ばかり戦わしても進展がありません。 というより、主婦は明日の朝食をきちんと作るために、もう寝る時間です。お休みなさい。

Hbar 10/4
おババさん力の入ったコメントありがとう御座います。
おババさんの仰る通、結論を引出す為の問題提起をします。
教育の目的は、児童・生徒が如何なる時代の変化にも対応できる生きる力を持たせる事に他なりません。
知識は、実はどうでも良いのです。ホリエモンが拘置所の中で百科事典を読んでいたという報道が為されていました。知識は拘置所であろうが、刑務所でも吸収できます。又、独学の方が天井が無くって良いのです。
歴史に名を残す人は、学びの中で独学が殆どと推測されます。しかし、影響を受けた背中を必ず持っています。
知識を詰込む教育は、戦後の高度成長でのみ役立ちました。仕事がマニュアル化され、マニュアルが理解できる人間を大量に必要としたからです。
科学の発展と共に、益々必要な知識は増えるでしょう。大学四年間勉強して使い物になる学生は殆ど居ません。ほんの少しです。修士になって、よちよちです。博士で一つ何かやらせれるようになっているのが今の教育の現状です。
欲張りすぎていると思います。
先ず、教えねばならないのは国語と数学です。これのみに集中するのが、今の教育では無理だと考えます。
少し、習熟すれば国語の中で歴史や英語、数学の中で哲学を教えれば良いでしょう。総花的に全てやろうとするからおかしくなるのです。仕事にとって必要であれば、必要に応じてそれで儲ける会社が教えれば良いでしょう。
本人に知識欲さえあれば、ホリエモン宜しく自分で吸収するでしょう。

六十路独り言 10/4
「知識は独学で学ぶことが出来る」これは確かです。
しかし最初から出来るわけではありません。ある程度の基礎知識がなければ、誤った理解をし、とんでもない方向に進んでしまいます。自分流の独学だけでは、自分の誤解に気づきにくいものです。
そこで問題になるのが、現代における基礎知識は何で、何処までなのかということです。
昔は「読み書きそろばん」といわれ、それが最低限の基礎知識でした。科学もさして進歩してなくて、職種も少なかった当時はそれで十分だったでしょう。
しかし、現代の学問の進歩、複雑な社会情勢、国際情勢に対処して生きてゆくためには、各分野におけるかなり広範な基礎知識が必要です。
それらの土台として、小学校低学年で、国語算数に力を入れることは重要なことだと思いますがーー
では各分野で何が基本かとなりますが、それは門外漢が言うよりは、やはり各分野の専門家に判断してもらうしかないでしょう。
 知識の内容を検証するよりは、我々が考えてみる必要があるのは、望ましいのはどのような人間なのか、その人間を育てるためには、どのような能力を与えてやるのが必要かと言うことです。
 背中を見せるだけでは、真似をしろと言うだけになります。
真似だけでは進歩はありません。そこに自分の考えを入れ発展させ、行動させなければ、効果が上がったとは言えないでしょう。
(これが多分Hbarさんが言う運用力かもしれません)
それ故、教育は積極的な、能動的な、働きかけです。
 情報化が益々進むこれからの時代、必要だと私が思い、授業の中で努力してきたものの一つをあげると
それは、問題点を見つけだし、解決法を見つけるための情報の見つけ方、情報の選択の仕方、そこから自分の考えをまとめあげる能力を身につけることです。
更に、情報社会で上手に生きると言うことは、情報の上手な受取手であるだけでなく、上手な情報の発信者でもあることです。
これを一口に言うなら、「情報に振り回されない自立した個人」
になることです。
教育の現場では、知識の伝達を一つの手段として、これらの能力の開発を目指す必要があります。 
 もう1点、付け加えるなら、集団での学習、いわゆる学校教育には、社会性の訓練という重要な要素があります、
一人で本を読んで知識を得るだけでは、社会性は育ちません。

Hbar 10/4
おババさんの仰る通です。
歴史(地理的広がりが必要)と哲学を背景にして、十分な(例えば、国語であるなれば、紫式部とか吉田兼好の授業を通り一遍にやるのでは無く、その人柄、社会背景迄教え、数学であれば、ロボットの基礎となる半導体の理解を含める)国語・数学教育をやっておれば、何を学習しても自身で応用の効く人間になるでしょう。
しかし、それだけであればEラーニングで十分かも知れません。先生が教える意味は、やはり背中を見せる事なのです。そして、その人間先生の受取り方で教えるという事が国語や数学の力を付け、社会に出てからの血肉になるでしょう。
これだけの情報社会、このブログを書き出してからでも量的には千倍になっています。一日の内、一時間近くはカットの為に費やしています。ご縁ある情報だけで好い思います。社会性を育てる為にこそ国語や数学は人間に同級生と共に学ぶのです。

NETの野草 10/4
六十路さんのご意見、概ね賛成致します。
大部分の会社が同じと思いますが、新入社員に求める事は、やる気が有るか、論理的な思考が出来るかどうかです。基礎的な学力として国語力は大変重要です。仕事を進めるには必ず第3者を説得し、又は理解を得る必要があります。国語力がないと説得も出来ません。
 中途半端な専門知識は不要です。専門知識は仕事を通じていやでも取得できます。何としても必要な事は、間違っても良いから自分で考え、判断する習慣を付けていることです。出来ることなら何か1つ精通しているとベターです。その知識を発展させてより良い判断が出来ることが有ります。
 自分で判断して、成功し事は大変嬉しく、一生忘れません。間違ったことも、反省によって次の成功への肥やしとなります。対象の大小は有っても、この事は小学生から大学の先生まで、全て同じと思います。小中学生には、何でも良いから何かの成功体験をさせる事が必要と思います。

Hbar 10/4
成功体験いいですねぇ。
大切な事ですが、今時代は大きく転舵しようとしています。仕事現場では、今までの常識では対応不可能な状況が多々生まれています。
丁度明治維新の時のように、何もかにも違えなければ出来ないかも知れない時代に入りつつあります。こうやって、顔も名前も知らない同士、リアルタイムでディスカッションしております。
逆に、一昔前であれば、これだけのイベントを開催するのにどれだけ費用が掛ったでしょうか。それが、常時接続サービスの利用だけで後は只です。
昔の常識を楯にしている人は、収入さえ得られません。
ホームレスでしょう。
これからの時代を数十年切り抜けていく為には、相当な転舵が必要と考えます。
誤解があるといけないので、一言コメントします。文明の転換点という事も含めてディスカッションして頂きたく、余論を書きました。参考までに。
今日のNHK総合放送のクローズアップ現代で、労働を時間で縛るのではなく、成果主義にするという法案が国会で審議され、粗通過するだろうという大前提で賛成・反対論議がありました。
既得権益、詰り公務員とか大企業に勤務する労働者にとっては厳しいもののようです。しかし、時代が動いている事を考えれば、既得権益の所得は保証されるけれども、フリーターや中小零細企業の社長及び労働者にとっては成果をあげれば良い訳ですから、弱者にとっては良いかもしれません。
唯、成果主義を通せば、今の日本の基盤が崩れると言う危険性は大きいと思います。しかし、現状をほおっておくと益々既得権益層の横暴が目に余るものになる事が危惧されます。
「何を教えるか」では少ししか言っていませんが、このサークルでは、以前から『価値創造の変革』を言っております。単に、給与体系を見直すだけでなく文明の転換点として政府が何をすべきか考えるべきでしょう。

NETの野草 10/5
成果主義は、これからの若者に大変大きなインパクトを与えるものと思っております。 中小企業の間では、昔から成果主義となっていたと思います。即ち価値のある仕事の成果にはお金が払われますが、価値の無い成果には誰もお金を払いません。
 大企業に置いても、事業単位では、既にかなりの会社が成果主義を取り入れていると思われます。しかし、個人単位になると各事業は、組織で仕事をしている部分が多く、全体の成果をどの様に個人に分配するかは難しい問題があります。一方きれいに切り分けられる仕事は、外部に発注する事になります。
 ここで問題になるのが、技能・知識レベルの高い企業は、良い仕事を受け、成果に対しても大きな価値を認められます。しかし単純作業の仕事は、中国,東南アジア等の月給5,000円でも働く人達と競争しなくては成りません。 
 言い換えれば、これからの若者は、能力格差による所得格差が一層広がると思われることです。

あーちゃん〜 10/5
サークル招待ありがとうございます。宜しくおねがいします。

Hbar 10/5
私は、以前から再教育システムを提唱しています。
当然必要に応じて、企業では研修は行っているでしょう。それは既に時代の奔流が激しく、1民間企業では社員の質的転換を図るほどには手の施しようが無い所まで来ております。
政府もポリテクセンターなるものを充実しつつあるようですが、時代の進歩には全く追いついていません。
大学四年レベルの職業訓練でしかなく、これではグローバル経済に飲込まれてしまう事必至です。
こういう事を具体化してこそ美しい国ができるんでしょう。

八王寺だより 10/6
Hbarさんは、私が管理者を引き受けたように書いていますが、引き受けたわけではなく、「時々覗いて、書き込みぐらいはしましょう」と返事をしただけです。主宰者のHbarさんが帰ってきたときがっかりしないように、みなさん、気軽に書き込んでください。「教育基本法改定」を公約にした総理大臣が就任しました。懸念することはありませんか。

あーちゃん〜 10/6
なにそれ?土曜日が学校授業になるやつ?

八王寺だより 10/7
制限字数の関係で「教育基本法」の第2条まで載せます。阿倍総理は、「制定されてから60年経って、現状に合わなくなってきているので」と改定の理由を述べています。読んでみて、現状に合わなくなっていると思われますか。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(教育の目的)第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
第2条以下は次の通りです。
「(教育の機会均等)第3条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
(義務教育)第4条 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
(男女共学)第5条 男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
(学校教育)第6条 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
(社会教育)第7条 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
(政治教育)第8条 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」
第9条以下最後まで次の通りです。
「(宗教教育)第9条 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
(教育行政)第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
(補則)第11条 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。」
阿倍首相は、憲法改正も公約に掲げています。「教育基本法」と「憲法」で、現状に合っていない点は何か。アフガン戦争、イラク戦争で、アメリカから要請されたが十分に応えられなかった点。自衛隊の海外派遣と、戦闘参加です。憲法を拡大解釈して、海外派遣までは何とかやったが、米軍と一緒に戦闘に参加することまでは、憲法上出来なかった。今後はそれを公然とやれるようにするために、「憲法」と「教育基本法」の改正に乗りだしたと、私は見ています。

あーちゃん〜 10/7
安部さんだと税金あがるってきいたような・・・・

八王寺だより 10/7
来年の7月に参議院選挙があります。それまでは、税金を上げるとは明言しないでしょう。しかし、選挙が終わったとたん、消費税の引き上げを言い出すことは、目に見えています。
「教育基本法」の全文などを載せ、すっかり堅苦しいブログになってしまいましかね。申し訳ありません。「子供の未来を考えよう」の原点に返って、教育や子供についての世間話を気軽にしませんか。

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