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教育とは何ぞや
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作成日時 : 2008/12/11 21:21
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学校が揺れ出して何年になるだろうか。
登校拒否という問題が浮き彫りになってはや30年という年月を数える。
その間、教育現場では学校学習指導要領とPTAに挟まれて、退職に追い込まれる教員が続出している。
この間、文科省の学校学習指導要領は猫の目のように変わった。
歳月と共に日教組は弱まったように思う。
大体日教組と言う組織は終戦を受けて、共産党が主に立ち上げたもののように感じている。
当時は先生の給与も安かった。
それと戦争への反省に対する主張が多かった。
日本の高度成長と共に教員の給与が改善した結果、日教組の存在意義さえ問われている。
単なるヤジ将軍となっている感が大きい。
単なるヤジをマスコミが取上げるものだからPTAが勘違いをしてしまう訳だ。
PTAは不満を感じて教育委員会に直訴すると現場の教員が独り悪者になってしまう。
大体において、日教組と教育委員会は部外者に他ならない。
主役は誰が何と言おうと児童に他ならない。
児童が社会に足を踏出した時に、自身の2本足で確りと大地を踏みしめてあるけるように教えるのが教育だ。
先生は公務員であるから法律には従わねばならない。
その学校学習指導要領がくるくる変わるのであるから堪ったものではない。
先生も児童も同じなのだが方針だけ変る。
こんな理不尽な話はない。
教育の根本目的は児童を2本足で立てる社会人にする事に他ならない。
それは教育が人の気質を変えると言う働きを生かしてなされる。
そうして、その大方は先生の背中で決まる。
日教組も教育委員会も何も出来ないのが教育に他ならない。
先生は大学の教育課程で教育の根本を教わる。
ここらが確りしていないのだろう。
まあしかし、卒業したての新任教師に背中を要求する方が無理と言うものかも知れない。
教えながら、そして校長や教頭の指導を受けて背中を育成していくのだろう。
いい先生にあたるか否かは運でしかない。
その先生が持っているものを受け取って学んでいくほか無いのだ。
先生の役割は子供が勉強を好きにする事だけなのだ。
しかし、学校学習指導要領に沿って教えていく内に子供達は勉強が嫌いになっていく。
文科省の学校化とか教育委員会は要らないのではないか。
役割を終えた日教組は去るのみである。
教育に日教組・教育委員会は要らない。
下手をすると文科省の学校教育課も要らないのかもしれない。
教育学部教授の奮起を促したい。
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