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zoom RSS 日本人の気質を求めるその十(カルチャー:背骨としての仏教)

<<   作成日時 : 2007/02/25 12:31   >>

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これまで倭族から始まった文明の連鎖を書いてきた。

十姉妹が文法を習った如く、我々日本人も武士道をという品格を手に入れた。

倭族から始まった、一万年に及ぶ文明の連鎖は自らを極東に追いやった黄河文明を学習する事から始めた。
儒教を中心とする諸子百家の学門と新興の仏教だ。

聖徳太子が十七条の憲法や法華経儀疏を始とする様々な経典解釈から始まっている。
飛鳥時代は取遇えずという形で入ったようだ。

本格的に入って来たのは、奈良時代からのようである。

先ず、論が入ってきた。
南都六宗である。
これで空・中道の概念は言うに及ばず、原始仏教やそれに付随する律とか唯識も入り山岳仏教として議論白熱し次の天台・真言の登場を待つ。

天皇親政における統治思想としての仏教の仕上に当時の中国における最先端思想であった真言・天台の戒壇設置となる。
その二宗の成熟を待って、庶民に仏教が浸透してくる。

それはご紹介した通、念仏と禅の二つの潮流に収斂されて来る。
結果として日本人全員に仏教的世界観と共に仏のあり方が浸透する。
念仏からは憧れとしての仏を。
禅からは自身の体内にある仏のあり方を究めた。

戦乱に明け暮れ、荒んだ世に生きた人々が観じた仏とは一体どういうものかを見てみよう。
釈迦の思索は苦を滅するという願望から始まる。

苦しみは以下にあげる心に生じる八つの変化から生まれる。
先ず、縁に触れて心が動き、それを注目する。
次に、好悪の判断をし、その想いを強くする。
その好悪が心のしこりとなり、名前を付ける。
自分の付けた名前に縛られ、心が自由でなくなり苦でのたうちまわる。

このように苦は執着が大元であると釈迦は悟った。

有るが侭の自身を受入れ、自ら然らしむるに甘んじれば苦になりようもないのだ。

その執着を滅する為に般若心経では悉く無であると断じ、全ての本質は空であると断じている。

執着を滅した時に顕れるのが4無量心を持つ人、詰り仏になる。
4無量心というのは我々が何時も何気なく使っている慈悲と喜捨で、以下に説明をする。
慈は友情を持つ事であり、悲は情を同じくする事であるから、縁ある人に対し悉く友情を持ち、一緒になって喜び悲しむ事が慈悲の心であろう。
喜は何でも嬉々として一生懸命に行う事であり、捨は見極める事であるから、縁ある事象を見極めてそれに対して懸命に打込む事が喜捨の心であろう。
一芸に秀で、社会的に評価の高い方々を見るとそういう生き方にも見える。

そして、その行う具体的実践規範として見・思・語・業・命・念・精進・定を正しく行う八正道が挙げられる。

又、その心でもって布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行じる姿こそ武士道に象徴される日本人の千年の熟成を経て培われた背骨と考える。

その背骨を殊に明治の廃仏毀釈を機会に日本人が意識しない状態が現代の世相を作ったのではと危惧する次第だ。

仏教の説明は後述する機会はあると考えるので詳しい話はそれに譲りたい。

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